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2006年5月

2006年5月29日 (月)

明日からフランス

浮かんだことを書くと、「あー無情」というジャンギャバンが主演する古い映画だ。

パンを盗んで監獄に捕われたジャンギャバンの演じる主人公ジャンバルジャンはそこから脱出する。 それ以来彼を追う刑事との永い逃亡人生の話だ。

映画を見ていると脱走して逃げているジャンバルジャンを「捕まらないで」と応援してしまう。 途中でフランス革命も絡んで来ると、これまた革命の側、つまり一般の民衆や学生の側を応援したくなる。 バリケートを作って自分もそこに参加し、時の権力に対して戦っているような気になってしまう。

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2006年5月24日 (水)

人間的魅力と霊的魅力

私はどちらも好きである。

両者がクロスする場合も多々あるのではあるけれど、人間的な魅力となるとその人がワガママであったりハチャメチャであったりする事や欠点なども、時には微笑ましかったり羨ましかったり。 自我の領域に至っては人が真似できないくらいの強い自己主張や力強さなども魅力と言えると思う。 個々人の歪な性格も時には魅力である。

では霊的な魅力とはいかなるものであろうか。

両方とも奥が深くて底なし沼に埋没してしまいそうであるが、この霊的魅力というのも私の感性では大好きな分野だ。 いろいろな魅力があり一言では語り尽くせないが、わかりやすいところでは、他人を明るい気持ちさせてしまうとか、他人に勇気を与えるなどは誰にとってもわかりやすい人間的魅力でもあり霊的魅力と言ってもいい気がする。

わかりにくくしかも目立たなく見落とされがちなのは、物静かで内向的な人の持つ魅力や男性的なエネルギーとは異質な出方をしている人の魅力ではないかと思う事がある。 静寂がありよどみ無く澄んだバイブレーションを発している人の魅力は、ザワザワと落ち着きがなく飢え乾き愛を渇望しさ迷う魂を持つ多くの人にとっては、物足りなく感じる事もあるような気がする。  時につまらない個性として顧みられることも少なく、せっかく優しい輝きを発しているにもかかわらず目に入らないのかもしれない。

                                            

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感謝!

豊橋に始まり長野、そして埼玉県のヘリポートにおける一連の仕事は大変疲れはしたが、心から感謝だ!

いつも演っている仲間と新たなシチュエーションで演奏したり過ごしたりすると、時に新たな発見や感動があるものだ。 またいつも演っていないミュージシャンと演るのも新たな発見と感動があることがある。

長野ではなんといっても私の敬愛するピアニストである大徳俊幸氏との超久し振りのレコーディングだった。 長野で活躍している女性歌手の記念アルバムを手伝ったのであるが 、縁の流れの中に身を任せて生きていると自然なタイミングで一緒に演奏することが起きたりと嬉しい限りである。

大徳さんと霊的な話をしたことも充実した時間だった。

なぜ若い頃あれほど大徳さんに魅かれたのか、その答えが今にしてようやく判った気がする。 それは彼のスタイルだけではなかったのだ。 つまり彼が霊的な人だということで 普通はあまり気がつくことのない彼の魂の部分だったということが判ったのである。

音楽で魂というとソウル、しかも熱く情念を鼓舞する方面の事かと思われがちで、実際その方面でイメージする場合も多いのだけれど、 大徳さんの場合は彼の魂の持つ 世間に対しての無欲で霊的な静けさや落ち着きであろうか、とかく刺激を求め熱い人間の持つ自我の欲求をみたすようなエネルギーが求められたり喜ばれたり 、男性的なエネルギーが評価されたりはするが、彼自身が表現するささやかな満ち足りた甘美で優しく美しい世界、それでいてしっかりとした美意識につらぬかれていて、押しつけたりピアノの音数が多くなったとしても、俺が俺がとは言おうとしていないと感ずる彼の濁りのない魂のありかたに、自分でも気付かないくらい奥底で魅かれていたのだとつくづく思ったしだいだ。

要するに大徳さんの場合、バイブレーションの出方や発し方が異なるのだと思う。 男でもなく女でもなく、発せられているエネルギーは ただ人でありただ魂なのではないかと思ってしまうのだ。

とにかく一連の素敵な仕事と過ごした時間、仲間や運の流れに感謝だ!

                                                  

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2006年5月23日 (火)

加藤的歌伴

今までのイメージややり方をチャラにして、0から何ができるか何が生み出せるかを常に思いステージに上がるまで何も決めない。

曲は歌詞とメロディー、そしてコードという基本的なところから歌い手と何が生み出せるかを考えステージ上で立ち上げる。 伴奏という意識ではなく対等なソロイストという点に立ち、予定された曲の構成は考えずステージ上でのヒラメキと意思の疎通に任せる。

歌伴というより自分のソロという意識であるから 普通、歌手の人が考えるテンポ、イントロや間奏の長さエンディングは私には意味をなさない。 ルバートから入ることも多く、後はテレパシーに重きをおく。 前奏は納得するまでたっぶり時間をかける事もあり同じく間奏も納得するまで演奏する。 間奏は瞬間作曲に取り組み、第二楽章という思いであるから、行われている曲のコード進行とは違う世界にも突入する事もある。 クラッシックの交響曲を思い浮かべていただきたい。

ステージングは歌手のショーというものではなく、二人の音楽家のデュオという意識で好きに進行する。

ライブハウスではディナーショーじゃああるまいし、歌手だと喋ったり笑顔で歌わなければならないなどという発想は無くてもよいと考える。 女性歌手だから客に笑みをふりまかなければならない必要はなく、1アーティストとして音、音楽に集中し合う。 そして限り無くクリエイティブな瞬間を目指す。

演奏以外の事には時に無駄で、意味をなさないエネルギーの浪費はできるだけ省く。 いくら楽しい、喋りが上手くアクションもあってビジュアル的に良いと言っても、エネルギーが拡散して肝心の歌の集中がおろそかになるくらいならば、そんな事は必要ないとも考える。 自分独りで部屋の中で歌いたくなって歌った時、笑顔や身振り手振りで歌うだろうか? 自然に歌を歌った時は客を意識せずにただ歌ったているのではないか? その自然な状態で演奏し合いたい。

私の場合は、歌手同様に行われる曲が自分の中に心から流れるまではなるべく演奏をさける。 そのかわり一旦その曲が自分の一部になるほど身についた場合は譜面を見ないで演奏する。 そして曲が始まってから終わるまでは自分のソロのごとくフレキシブルに演奏したいと考える。

                                                     

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2006年5月 9日 (火)

私と歌伴

歌伴といえばたいていの場合ピアニストが受け持つことが多く、イントロやテンポ、そしてエンディングにいたるまでピアニストが歌手の気持ちをさっしながら仕切ることが多い。

歌手の人はピアニストを信頼し頼り、そして身を任せる。

このようなコンセプトにギタリストが参加した場合、ピアニストを妨害しないよう注意しながらの効果的な色添えかリズムキープにまわったりと、やり甲斐はあるが添え物的である。そして歌手の人がギタリストに身を任せているとか自分が頼られているとはあまり感じないのである。

私はそのようなポジションにいる時に自分だったらこうしたい。 自分ならこんなサウンド、テンポ、アイディア、間合いなどいろいろ感じたり思う事があった。

これを具現化するには、誰か私専門の歌手とコンビを組んでピアニストのいないギタリストだけの歌伴をするしかないわけである。

そもそもこのギタリスト中心の歌伴を何故始めたかというと、歌手に信頼され身を任せられたという幸せな体験のせいである。

私が選んだテンポ、サウンドなどで気持ちよく歌っている歌手との個人的とも感じてしまうかのような通じ合いの経験は恋愛にも等しいくらいの、いやそれ以上の格別な快感であった。 その瞬間での通じ合いは、まさにギタリストみょうりにつきるのである。

習慣化していると感じることの多いいジャズの歌伴の世界。 そこにあらゆる意味で全く違った考え方や意識を持ち込んで何か素敵な世界を作りたいと思いたって始めたのが二十年前、シューミーとのDUOだった。

                                              

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2006年5月 4日 (木)

みなさん私は恐くありませんよ

昨日、客の女性から加藤さんは恐そうで話かけにくい、そして近寄りがたいとも言われたのでした。 その後に会ったブルースギタリストにも同じことを言われてしまいました。 「昔から知っていて好きだったのですが、加藤さんだけは神経質そうで近寄りがたくて話せませんでした」である。 これは昔からことあるごとに言われることがあり、さも気にしてはいなかったけど、なぜか考えてみた。

話したあとは大抵の場合「こんな人とは思いませんでした」「神経質そうに見えたけど気さくでイメージが変わりました」へたをすると「話さなければ素敵なのに」などの答えが帰って来るのだけど、うーんこれはマズイ? 他人を寄せ付けない気を発しているのだろうか?やはりそうかもしれない。 まんじりともせぬ思いを演奏後もひきずっていたりする事もあるからかな?

昔は女性ファンの方から、よく腫れ物にさわるようで声をかけづらいと言われたり。 思い出すと演奏中もすぐ反省し演奏後もすぐ反省。 上手くいったと感じたときは逆に照れて笑みを押し殺していたりしたりと、常に真剣な顔をしていたかもしれない。 演奏後すぐ笑ってワイワイなんてとても出来なかったのだ。 自分の演奏がだめだと思っている時は笑えないし他人の顔を正視できないどころか挨拶もできなくなったり。

この真剣な顔が要因にもなっているかと思う。 真剣な表情の時は誤解される事も多いい。 暗い、神経質、明るくない人、カタブツ、頑固一徹などなどである。 おまけに目玉が出ていてギョロッ! その目でギョロッと見られて恐かったとか、マイルスデイビスのような目ですねとかも言われたりして来てるから目玉にも問題があるような気がする。 納得がいっていないとすぐ目に気持ちが出てしまうし、楽しかったら楽しかったで照れてこわ張っていたりと、いやー俺はろくな奴じゃあないな。 少しみなさんを和ませられるように成長せねばなどと思うこともあるが。 集中している表情や真剣な表情も近寄りがたくて当然だろうとも思う。 そしてとても器用には立ち回れない。

最近では演奏前にビールなども飲みながらアホ馬鹿な恥ずかしい私でいたりするけれど、少しでも他人様を和ませられるよう成長しなくてはなどと思ったりもする。

                                                

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